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扉が開くシーンが最高

先日、村上春樹さんの「騎士団長殺し」を読了。




現実世界にあっちの世界がさりげなく入り込んでくる。
まあいつものパターンなんだけど、後半はっとする部分もあって
へえ村上さんもこんな書き方をするんだなあと意外に思ったり。


私にはイデアの説明はできない。
メタファーもうまく使えない。


同じようでありながら過去の作品と同じ線をなぞっているわけではあらない。( ̄ー ̄)
常に新たな試みがどこかにあって新作を読むたびに惹き込まれる。
個人的には前作の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」より好き。
羊三部作とか好きな人は気に入ると思うけれど
アンチには受けない一冊かも(笑)。
















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「ねじまき鳥クロニクル」を思わせるこのスタイル。

『第1部 顕れるイデア編』
『第2部 遷ろうメタファー編』

これはもしや第3部も出るのでは、と読む前からほくほくしたが
ラストが近づくにつれて、続きはないなと思った。
だって村上さんにしてはめずらしく「そろそろ終わりますよー」というにおいが
ぷんぷん漂う最終章だったし。


なのに








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もちろん村上さんのことだから
書こうと思えば続きはいくらでも書けるんだろうけど。
でもなあ。
第3部出るのかなあ。
どっちなんだろうなあ。




もし読まれた方がいらしたらぜひ意見をお聞きしたい。
第3部、あると思います?



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全ては自己責任です

今年のジャーニー来日に併せて発売された雑誌やムック本は
私もひと通り目を通したが
(「ヤング・ギター」は書店で立ち読みで済ませたけど)
いろいろ読んでいるうちにだんだん疲れてきてしまった。
初めて読む内容もあれば、これは昔読んだなというのもあって
最初は嬉しかったんだけどね。
あっちとこっちで書かれていることが微妙に違っていたりすると
私のあいまいな記憶に長年すりこまれてきたものも含めどんどん混乱していく。
決してもう若くはない私の脳細胞はついていくのが大変で。
















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ああいう文章を読んでいると記事を書くライターや校閲者の責任
ひいては出版社の責任というものを考えさせられてしまう。
何気ないソースの選択がミュージシャンのその後の方向性の明暗を分ける。
ちょっとした言葉の選び方でニュアンスも全く違ってくるし
その言葉尻だけが独り歩きをして
ファンの感情に思わぬ影響を及ぼしてしまうこともある。

スティーヴもそういう言葉の独り歩きにうんざりしてしまったのではないだろうか。
自分の発言が他者によって自分の意図しない方向へ向かってしまったら
真意を曲げられてしまったら腹も立つだろう。
だがその腹立ちももどかしさも行き場がなかったとしたら。
一挙一動にも注目を集めてしまう人間にとってはつらい。
そりゃうんざりして観念して黙りたくもなる。




私がスティーヴのことについて必要以上に検索する気になれないのは
そういうところもあると思う。

今回の雑誌のような公共の出版物においても
書かれていること全てが事実とは限らない。
たとえそれらが我が物顔で消費者から銭を巻き上げていたとしても。
じゃあメディアの存在意義って何なんだという声が聞こえてきそうだが
















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私がここに書いているこんな駄文が
インターネットの検索エンジンに引っかかるとも思えないが
たとえ一人でも読む人がいれば
小さいながらもその責任という言葉は書いている私の心の内にも残る。
少なくとも私は自分が書いたものは一所懸命信じる。



あの曲

百歩譲ってスティーヴがセレモニーに出席したとしても
ジャーニーで一緒にプレイすることはないだろう。
あくまで持論ですよ、諄いようですが

スティーヴは過去のインタビューで一度ならずこの手の質問に
はっきりNOと答えている。
















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あの未発表の曲。
関係者が動画サイトにこっそりアップした例の曲です。
今では私の中で「Tuesday Heartache」と同じくらい好きな曲となっている。
こっそりと言ってもあっという間に拡散されてコピーまでされて
もはやスティーヴの想いが置いてきぼりにされてしまったみたい。
今の時代、インターネット上で完全になかったことにするのはもはや不可能。


私には英語の歌詞の内容なんてわからないけれど
スティーヴにとっては大きな意味を持つ、あるいは
何か決意を込めた曲のような気がする。
だからあくまでプライベートなものとして秘密裏にレコーディングが行われ
スティーヴも公開を許さなかったのではないだろうか。
公的なインタビューで自分はもうジャーニーのメンバーではないと答えたのと
近い時期にレコーディングされたようだが
そう考えるとセンシティブな問題について間接的に訴えているようにも取れる。

スティーヴは何を聞かれても何度尋ねられても
沈黙を守るのかもしれない。
曲のことについても、ジャーニーに対する今の気持ちも。




あの曲を歌うことで自分の中で一つの幕を引いたのかもしれない




そんなことまで考えてしまう。
















「言いたいことがあるからこそアルバムを作る」
かつてそう断言したシンガーが長い年月を経て目をさました。
2015年、スティーヴはまた歌いたいと自分の気持ちを認めたことは確かなのだ。
これまでにも時に心の内を歌に託して訴えてきたスティーヴ。
ジャーニーではなく、ひとりのシンガーとして今言いたい、歌いたいものは何だろう。
スティーヴの気持ちを妨げるものなどあってはならない。
どうかそっとしておいてあげてほしいと
スティーヴから遠く離れたところで祈る。




今ふたたび歌うのなら
「ファンのために」というのは間違い。
「自分のために」であるべき。



あなたの気持ち

今回のロックの殿堂セレモニーについて。

スティーヴ自身からはいまだに何も発信されていない。




今まで自分からは意識してあまり触れないようにしてきた。
洋楽はスティーヴと当時のジャーニーしか知らない私が
偉そうに語ることではないと思ったのもあるけれど
一番は、スティーヴの気持ちを想像すると
第三者が軽々しく「ジャーニーに戻って」とか
「セレモニーに出席して」と言うのは少なくとも私にはできないと思ったから。

もちろんそういうことを口にする人たちを
決して否定しているわけではない。
スティーヴへの想いは10人いれば10通りあるわけで。








スティーヴがセレモニーに出たくない
ジャーニーで歌いたくないというのなら
それでいい。
















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スティーヴってわかりやすい人だ。

「Trial By Fire」が完成した時のスティーヴの喜びはどれほどのものだったか
インタビューの動画を観ればよくわかる。
もう一度ジャーニーとしてひとつの完成形を見ることができたんだもの。
それだけにその後の一連の出来事は相当なショックだったろう。
今でこそ誰にとっても運が悪かったとしか言いようのないことだけれど
スティーヴの心には身体以上に大きな傷が残ることとなってしまった。
その傷がどこまで癒えたのか、それはスティーヴしかわからないこと。
そう考えると今公の場に無理矢理引っ張り出すのは私には早計に思えてしまう。
年月なんて関係ない。


ミュージシャンとしてのスティーヴは今でも
ニールをはじめメンバーをリスペクトしている。
アーネル・ピネダのこともたぶん。
メンバーとの関係がいつか修復されたら、と一ファンとしては願う。
かつては一緒に喝采を浴びた仲間なのに、和解することなく
これから先の残された人生を送るのはあまりにも寂しい。

おそらくニールは過去の出来事についてあまり深く考えていない。
ニールなりにその時々に最良の判断を下してきただけのこと。
だから時間がたてば「また一緒にやろうよ」と
スティーヴに対して無邪気に呼びかけることができるのだろう。
そんな楽天的な性格がニールのいいところでもあるんだろうけどね。

うん、ニールって無邪気なんだと思うんですよいくつになっても。
無邪気がそのままトシ取ったって感じ。
それがスティーヴのような性格の人から見ると
時に無頓着というか無神経なタイプと映ってしまうのかもしれない。
私も周囲の一定の人に対してそう思ってしまうことがある


外野があまりセレモニーに出ろとか歌えとか言えば言うほど
スティーヴは殻に閉じこもってしまうような気がする。
もともと意志の固い人だし。








ここで一拍。



エール

今日、長く入院している会社の先輩のお見舞いへ行ってきた。
重いなりに容体は今のところ安定しているらしい。


家に帰ってきたら病院独特の消毒液の匂いが鼻についた。
病院には30分ほどいただけなのに
服にもバッグにもあの匂いが染みついていた。
それに気づいた瞬間、昔入院した親戚のお見舞いへ行った帰りに母がつぶやいた
「病院て本当にイヤなところね」
という言葉を思い出した。
















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先輩へエールを送る意味でこの曲を。
「Don't Stop Believin'」にしようかと思ったけれど
ちょっとベタな気もして(笑)。

底抜けに明るく元気になれる曲。






早く元気になってください。